硫黄島 | ||
故郷の廃家 幾年ふるさと 来てみれば 咲く花 鳴く鳥 そよぐ風 門辺の小川の ささやきも なれにし昔に 変らねど あれたる我家に 住む人絶えてなく 昔を語るか そよぐ風 昔をうつすか 澄める水 朝夕かたみに 手をとりて 遊びし友人 いまいずこ さびしき故郷や さびしき我家や |
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硫黄島への空襲が激化していく中、夕方になり米軍機が引き上げ地下壕から少年兵が顔を出すと、真っ赤な夕日が顔を染めその夕日に故郷の両親を思いあわせて、このうたを一人が歌い、二人がうたいするうちに合唱となり、それを聞いていた市丸海軍少将は彼らを待ち受ける過酷な運命を思い、こらえきれずに涙したと伝えられる。そして少年兵の大部分は故郷へ還らなかった。 |
硫黄島南西端に あるすり摺鉢山 米軍の激しい攻撃 により山の形も 変わった |
おがさわら丸 による硫黄三島 クルーズにて 硫黄島を 周回したあとに 献花を行います |
遺骨収集 | |
いまだ1万人近くの戦死者が硫黄島の地に眠り故郷に帰れる日を待っています。現在も硫黄島協会、厚生労働省、外務省、防衛省などの政府が一体となって遺骨収集が行われています。私が参加したのは2008年です。そのときの様子をお伝えします。私の伯父は海軍機関兵長として昭和19年12月に硫黄島派遣されました。18歳の若さです。すでに、本土(千鳥ケ淵)に還っているのか、硫黄島に眠ったままなのかは分かりません。 | |
硫黄島の管制塔 |
戦後初めて開発 された国産の 輸送機C-1で 入間基地より到着 |
上空からの 硫黄島 輸送機からは 見えません (窓がなかった) |
戦後米軍により 蒔かれたギンネム の種により現在は 島の多くが ギンネムに 覆われている |
地質は土丹岩と 言われる 凝灰岩が多い |
落とすと、 簡単に割れたり 鋸で切れる |
クサトベラ |
イオウトウ トウガラシ |
ヒメマツバボタン |
月下美人 |
上記の他にも、大きなものではガジュマル、タマナなどもあるが比較的植生は少ない | |
中央奥はかつては 海で隔てられて いた現在も かなりの勢いで 島が隆起している |
打ち上げられた かのように 見えるが島が隆起 して陸に上がった コンクリート船 |
海岸部では島のあちこちに、奇岩がある |
沖に見える残骸もやがて陸続きになるのでしょう |
長距離大型爆撃機 B-29超空の 要塞と呼ばれた爆撃機サイパン、テニアン、 グァムなどから日本本土全域を爆撃 |
ボーイング 世界最大の航空機開発製造会社 広島にリトルボーイと呼ばれたウラン型原子爆弾を エノラゲイから投下。長崎にフォットマンと呼ばれた プルトニウム型原子爆弾をボックスカーから投下 |
25粍連装高角機銃 対空砲として 威力を発揮した |
今は、 航空自衛隊による 戦闘機(F-4)他 離発着訓練が行われている |
この壕の中はぞっとしました |
壁がどろどろに溶けていました これが火炎放射の跡なのでしょうか |
陸軍歩兵 第145連隊壕 鹿児島で編成 された精鋭部隊 |
この壕は島の 北部にあり 近くには司令部壕 もあり硫黄島での 戦いの壮絶な 持久戦を続けた |
遺骨収集が始まる 隆起し続ける島 ギンネムなどに 覆われ、 見つけるのは困難 |
日本軍の食器など 多数見つかる |
中央の 円筒形のものは? |
不発弾 ここでは 60発近く見つかる |
土に覆われた楕円形のものは 米軍のものと思われる手榴弾 |
重機関銃の弾でしょうか? 薬莢だけでは ありません。弾丸がそのままです |
私が参加して4日目 この場所から 8名の方のご遺骨が 見つかりました 一週間という短い 期間では、他には 見つかりませんでした。 また機会が あれば参加したいと思ってます |
天山慰霊碑 遺骨収集の 最後に慰霊祭が 行われました |
慰霊碑の隣にある納骨堂 いったん納められたご遺骨を 洗骨をして東京(千鳥ヶ淵)へ ようやく戻れます |
誰なのかは分かりません。 伯父のものかもしれません 本土(千鳥ヶ淵)に還る前に 少しでも 綺麗にして |
まだまだ、沢山のご遺骨が眠っています。 | |
摺鉢山の山頂にはいくつもの碑があります |
山頂から摺鉢状の中を覗いたところ |
星条旗が立て られた場所の すぐ近くにある 米軍戦勝記念碑 |
訓練にやってくる 海兵隊員の多くが 帰り際認識票を 残していく。 この地で戦っ 先輩達に連なる 存在であることが 海兵隊員の誇りで 硫黄島は彼らの 「聖地」 |
第一御楯 特別攻撃隊 第二御楯 特別攻撃隊 |
昭和19年11月27日 サイパン飛行場の B-29を攻撃 第一御楯特別攻撃隊 昭和20年2月21日 から3月1日に かけて硫黄島周辺 にて敢行 父島の凸凹の 飛行場からの 離発着 第二御楯特別攻撃隊 |
硫黄島 戦歿者顕彰碑 碑面の地図は 挙国一体の熱誠を こめて各都道府県 から寄せられた 献石による |
昭和44年6月26日 建立 護国の礎石と なった二万余柱の 忠霊の悲願に応え 限りなき敬仰の 至誠を以て 萬世の太平を祈る 霊標とするため 米国海兵隊の 記念碑と並べて この山頂に建立 |
山頂から降りて島を回ってみる | |
鎮魂の丘 摺鉢山を望む場所 にある米軍が上陸 した南海岸に 面していたため 激戦地となった 場所であり数々の 戦跡が残っている |
混成第2旅団 独立歩兵第309 大隊長 粟津勝太郎大尉 鎮魂の丘の下には 幅の狭い壕が 広がっている |
粟津壕の入り口 中は幅も狭く やっと一人が 通れるような壕が 四方八方に 広がっている。 中に入ると どっちから来て、 どっちへ行ったら よいのか全く 分からなく なってしまう 上に車道も通って いるので車の音の するほうへ行って どうにか 出ることが出来た |
鎮魂の丘から 摺鉢山へ向かう 途中にある 再会記念碑 ここで、 日米合同 慰霊祭が行われる |
日本語 “かつての戦地、 昨日の敵は、 今や友好の 地となり、 今日の友である” |
英語 |
1945年2月19日に上陸を開始した 米軍は23日 摺鉢山を攻略、 その時頂上に 星条旗を掲揚 それは旗が小さ かったため改めて 大きな旗を掲揚 その時撮られた 写真が ピューリッツァー賞を 受賞 |
そのときの写真を モチーフに米国 海兵隊が作った 壁画、 岩を削り浮き彫り にしたレリーフ |
兵団司令部壕 栗林忠道中将が最後に出撃したとされる壕 |
入り口は数段の階段を下りて地下へ入っていく 入り口はコンクリートになっている |
島の中央北よりにある大阪山砲台 15糎砲 |
激しく攻撃された跡がある |
元山地区あった 硫黄島神社 (鳥居)を復元した もの戦前は 年に一度の お祭りが あったようです |
北観音 昭和27年に 佐和智恒蔵 元海軍大佐 などにより建立 |
ニトベカズラが綺麗に咲いている ニトベカズラ(新渡戸稲造さん?5000円札) |
硫黄が丘 島の中央付近にあり常に高温の硫黄泉が 湧き出ている |
市丸利之助少将は ここで 『ルーズベルトに与える書』を 書いたのでしょうか。 『世界のあらゆる人種が郷土において自主独立し それにより恒久的世界平和の確立すること』を 願う理想は、今現在も痛切に感じるところです |
西大佐の碑 1932年 ロサンゼルス オリンピック 馬術大賞典障害 飛越個人競技の 金メダリスト この競技の勝者こそ真のオリンピック勝者という 意味合いもありオリンピックの最終競技として 閉会式の行われるメインスタジアムで10万大観衆の 中で行われた |
2020年の東京オリンピックはこの西大佐の碑から聖火を走らせていただけないでしょうか。1940年幻の東京オリンピック(開催できませんでした)1964年の東京オリンピック(ここは米国統治でした)聖火ランナーは、旧島民の方々や英霊のご遺族の方々にお願いできればと思います。 |
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硫黄島には今も1万余人の英霊が故郷に帰れてません。 戦前平和な島で暮らした方々は逆にこの島に帰れてません。 一日でも早く故郷に帰れる日が来ることを願います。 |